9月1日で関東大震災から100年となります。10万5000人余りの人命が失われ、約30万棟の家屋が倒壊、焼失するなど、東京を中心に大きな被害が出ました。100年前の大災害時、当時の東京府北多摩郡狛江村はどんな被害を受けたのか、狛江の人たちはどう対応したのか、区切りの年を迎えて、あらためて見ておきたいと思います。狛江市教育委員会教育部社会教育課文化財担当の方々の助けを借りて、狛江市立中央図書館に所蔵されている文献で当時の記録を辿ってみました。
▽広報こまえのコラムから
広報こまえに「今はむかし」というコラムがあります。令和2(2020)年に市制施行50周年を記念して、上下2巻の本にまとめられました。松原俊雄市長は「刊行によせて」という文章の中、このコラムが「市史に掲載されないような市民の方々の日常生活の歴史を紡ぐ」と、その意義を語っています。
平成5(1993)年から始まったコラムは上下巻合わせて310回分が掲載されていて、その中に関東大震災を取り上げたものが3本あります。いずれも筆者は狛江市文化財専門委員(当時)の井上孝先生です。井上先生は聞き取った事を資料にあたって確認するという手法で書かれています。
大正12(1923)年9月1日午前11時58分、相模湾を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生しました。そのときの狛江村の状況はどうだったのでしょうか。平成30(2018)年9月15日のコラムでは「多摩川ではゴーという地鳴りと同時に水が揺れ、泥水になって魚が飛び上がったという。堤防も10町ほど亀裂が入り、道路や水田、畑には地割れや段差ができ、橋は2カ所で落下、まるでふるいにかけられたようだったという」と当時の様子を描いています。10町は1キロ余りですから、堤防にはかなり長い亀裂が走ったということです。
▽比較的小さかった狛江村の被害
地震の揺れは相当なものだったようですが、東京での被害に比べると小さかったと言えるかもしれません。平成30(2018)年9月15日のコラムには建物の被害を説明した箇所があります。「北多摩郡役所には『倒れた家も火を出した家もなく、土蔵の崩れ落ちた程度の被害だった』と報告しているが、住居の小破損237棟、土蔵の破損91棟、その他の建物の小破損211棟だった。井戸水は濁り、蚕棚が傾いて飼育中の箙が滑り落ち、蚕が一面に放り出された家もあった。秋蚕が繭を結ぶ大事な時期だったので余震の合間をぬって棚を戻し、蚕を拾って箙に戻した」
狛江村で死者は出ませんでしたが、村外へ働きに出ていた若い女性3人が犠牲になったと各種の資料に記載されています。「新狛江市史通史編」によりますと、犠牲者の1人は神奈川県足柄下郡温泉村(現箱根町)で倒壊した建物の下敷きになり、あとの2人は東京市本所区(現墨田区)で被災し、1人は遺体も見つからなかったということです。本所区は、猛火のために本所被服廠跡地で3万8000人もの犠牲者を出すなど、震災で亡くなった人の半数以上となる5万4000人が死亡したところです。
▽避難者と被災者の救援
被害が比較的小さかった狛江村には、東京、横浜の両市などから被災者が避難してきました。「新狛江市史資料編近現代3」によりますと、震災発生から約2週間後の9月13日時点で、狛江村には親戚や知り合いを頼って272人が避難してきました。前年の大正11(1922)年度の狛江村の人口は2973人でしたので、避難者で人口が一時的に1割近く増えたことになります。避難者には狛江村から白米、食塩、しょう油、漬物、缶詰などの食料が配給されました。また、村民46人から現金305円20銭が集められ、296人に対し、1人あたり1円を寄付しました。(貨幣価値を現在のものに換算したかったのですが、できませんでした)
狛江村は、東京での被災者救援にも動きました。村人から農産物の提供を受け、在郷軍人会狛江村分会が9日、東京市芝区(現港区)の虎ノ門金刀比羅宮に設けられた被災者の救護所に運びました。送られた農産物はジャガイモ、サツマイモ、ゴボウ、カボチャ、米、麦などでした。「新狛江市史資料編」によりますと、在郷軍人会狛江村分会は食料だけでなく、義援金約45円とシャベル7個などを被災者に寄付したとあります。ただ、当時の被災地では調理できる状態ではないため、腐敗してしまうものも多く、被災地での配給品としては不適切だったとの反省もあったようです。
▽流言飛語、デマへの対応
関東大震災について書くとき、流言飛語によって引き起こされた悲惨な出来事に触れないわけにはいきません。今回参照したすべての資料にも流言飛語への対応が記されています。「朝鮮人が襲ってくる」などのデマが飛び交い、そのために関東各地で朝鮮人や中国人、それに朝鮮人に間違われた日本人が殺されるという悲惨な出来事が数多く発生しました。狛江村では幸いなことに流血の事態には至りませんでしたが、その一歩手前のような状況は起きていました。
「狛江・語りつぐむかし」でも関東大震災について書いていますが、151ページに次の下りがあります。「一方、(9月)2日以降、朝鮮人が襲ってくるという流言で、村中がパニック状態になった。自警団が組織され、伝家の宝刀や竹槍を持った村の人々が要所を固めた」。平成27(2015)年9月15日の「今はむかし」にも、以下の文章があります。「暴徒が襲ってくるというデマが飛び交い在郷軍人会、青年会、消防組が自警団を組織し、警戒のために連日出動した。夜は三交替で各戸から必ず一人は出ることになった」
こうした文章からは、流言飛語がいかに切迫感を持って受け止められたか、伺えます。こうした事態にいち早く対応したのが軍でした。震災から2日後の3日、東京府と神奈川県の全域に戒厳令が布告され、立川、府中、登戸、長津田、原町田、八王子に憲兵が派遣されました。登戸憲兵派遣隊は4日に事務を開始しました。震災被害への対処などを記した公文書をまとめた狛江村役場の「関東大震災関係書類」という資料があります。今回引用した文献はほとんどがこの「関東大震災関係書類」を参照しています。「新狛江市史資料編」によりますと、「関東大震災関係書類」には大震災が発生した9月1日から3日にかけての文書は存在せず、最も古い日付の文書は登戸憲兵派遣隊から村役場、在郷軍人分会と青年団に宛てて発せられた9月4日付「憲兵隊設置の件通牒」です。公文書の次のやり取りはその2日後の9月6日に、狛江村から北多摩郡役所に被害状況を知らせる「震災概況報告」が発信されていますので、憲兵隊を投入して一刻も早く治安の維持と人心の安定を図ることがいかに最優先されたか、分かります。おそらく人々がまだ、震災のショックにいる中、流言飛語でさらに社会が不安定化するのを防ぐ意図があったのではないでしょうか。
以上、狛江村の被害の状況や救援活動、流言飛語への対応を見てきました。もちろん、100年前とは状況が大きく異なっていますが、それでも過去の歴史から得ることは多いと思います。今度の9月1日は今一度、100年前の大惨事に思いをはせる機会になれば良いですね。
ZAKI