(#2から続き)
▽中学を選ぶ
話を小学校に戻します。1年生から3年生にかけては、いろんな女の子たちに守られて、できないことを教えてもらったり、一緒にやってくれたりする子どもさんたちがいたので、けっこう機嫌よくやってたようです。子どもは成長しますから、4年生の後半から5、6年生になると思春期に入って、息子の周りの雰囲気が変わりました。「周りの子どもさんがやってることや話していることが分からなかったこともあったと思う」と、パートナーは振り返ります。
中学校をどう選ぶかということは、大きなテーマでした。パートナーは「うちの子はこうなんだということを周りの人に言っていた。オープンにしていた」と言います。そうすると、周りの人が助けてくれたと言いますか、中学受験の経験者でいろんな情報を持っていたあるお母さんから中学校に関するいろんな情報をもらい、中学校について教えてもらっていたようです。
うちは最初から公立中学への進学は考えていませんでした。小学校6年間は、先生や周りの力を借りて、友達にも恵まれて、どうにかこうにかやってきたという印象がありました。中学に入ると、環境がまったく変わります。「息子の安全を確保し、しかも良いところを伸ばしてくれるところ」という観点で私立の中学校を選んだように記憶しています。
息子は根が真面目というか、障がいゆえだと思いますが、ふざけるということがなくて、とにかく言われたことだけは真面目にやる子どもでした。反面、言われたこと以外はできなかったし、自律的に「もうすぐ、この授業は終わるな。次の授業はあの科目だったな」という具合に対応するのが苦手で、言われたことはずうっとやり続けました。ただ、先生にしたら、やりなさいと言ったことは良く守る子だったので、扱いやすい側面もあったのではと思います。
それで、中学受験をすることになりましたが、パートナーはその時の心境を次のように説明します。「これは一発奮起して、私立の合うところに入れざるを得ないな、本人に負担がかからない学校に入学させないと、という一念だった。他に選択肢はなく、それ一択。本人に負担をかけちゃいけない、余分な負担をかけちゃいけないとの思いだった」
そうした思い込みが夫婦ともどもあったので、相当カリカリしました。虐待のようなことがあったかもしれません。パートナーは当時同居していた祖父と祖母から「やりすぎだ。かわいそうだ」みたいなことを言われていたそうです。今から思えば、息子のために必死になっていたとはいえ、申し訳ない思いになります。
▽学校生活といじめ
小学校では、どんくさいところがあったので、からかわれたり、いじめられたりしたことはあったようです。しかし、学校に行きたくないとか、不登校だとか、そういうことはありませんでした。アメリカでは幼稚園の後、公立小学校に1学年だけ通いました。そのときはいじめの対象になったようです。アメリカの子どもはけっこう直接的といいますか、暴力的なところがあって、殴ったりすることもあります。息子は暴力を受けて、けがをしたりということはありませんでしたが、息子をいじめている子を、息子の友だちが殴ったことがあって、大きな問題にはなりませんでしたが、アメリカは違うなと感じた記憶は鮮明に残っています。
アメリカの幼稚園でもフィジカルないじめはあったので、狛江市の小学校に入る際も「そういうことがあったら困るな」という感覚はありましたから、パートナーは「何かあったら私に言いなさい、と伝えていたし、何かあれば、先生とすぐ連絡を取る覚悟だった」と言います。実際に入学してみると、それは杞憂だったようです。「1年生の時は先生もすごく丁寧で、子どもたちの良いところ、悪いところ、なるだけおおらかに、みんな良さを認めよう、みんなそれぞれで良いんだよという雰囲気があった。先生がそういう風におおらかに対処してくれたんで、その中で守られていた感じがした」。
中学は高校との一貫校でした。入学直後はガラガラポンで初めて出会うわけですから、大げさに言うとジャングルルール、弱肉強食みたいな面があって、いじめたり、いじめられたりする中で、友だち関係が落ち着いていくというところがありました。発達障がいを持つ子どもさんが他にもいらっしゃいましたが、息子はそんなにいじめられる方ではなかったようです。入学直後に軽いいじめに遭ったようですが、その時はやり返したらしく、それ以降は一目置かれるようになった部分もありました。
それからもいじめというか、いたずらみたいなことはあったようです。ワイシャツに何か書かれちゃったり、柔道着をすり替えられたり、運動靴を取られて、革靴で走っちゃったりとか、そんなこともありましたが、本人は意外に平然としているところがあって、中高でも「学校に行きたくない」と言ったことはありませんでした。息子は気が良いというか、何でも言われたことを信用して、その通りにするようなところがあるので、それが良かったのかもしれませんが、やはり、友だちに恵まれたということだと思います。
▽大学の卒業と就職
大学では中の上みたいな成績が並んで、単位の取得も順調でした。4年生の時は卒業論文だけが残っているという状況でしたが、その卒論が書けずに留年しました。指示されたことは真面目に完了できるのですが、自分でテーマを選び、論文を書くというのは、すごくハードルが高かったようで、すごく苦しんだと思います。自分で決めなくちゃいけないことに初めて直面したという状況でした。受け取り方に柔軟性がないので「人のものは使っちゃいけない」「自分で解釈して自分のものにしないとダメだ」「盗用しちゃいけない」という柔軟性に欠けた捉え方をしていて、何も書けないまま、4年生の1年間が過ぎてしまいました。パートナーは「あの時は本当にどうなっちゃうかと思った」と言いますが、先生の指導もあって、大学5年目で卒論を書き上げ、無事に卒業することができました。
さて、卒業の次は就職です。たしか、大学5年目の時に就職活動的なことを実践したようです。会社説明会なども何回か、覗いたようですが、うまく行きません。そんな時、山脇先生から「たちかわ若者サポートステーション(※)に行ってみたら」とアドバイスをもらいました。立川まで何度か、通いましたが、こちらでの相談と指導は懇切丁寧で、息子に寄り添う形のサポートをいただきました。発達障がいや引きこもりの人たちを主に対象にした社会人になるための支援のコースだったと思います。担当の方がテストを設定してくださって、専門の先生の息子に対する評価はかなり具体的でした。「発達障がいとしてはグレーゾーンだが、能力にでこぼこがあって、工場の単純作業のようなことは合わない。かといって、一般の就職も難しいだろう。総合的に言うと、障がい者枠でストレスのないような形の就職が良いんじゃないか」というものでした。その時は息子も乗り移ったかのように、就職したいとの意欲をすごく見せたと思います。本人が社会人になりたいんだという強い気持ちを持っていたと思います。
(※)狛江市からの最寄りは「ちょうふ若者サポートステーション」になります。
障がい者枠での就職は、私たちも考えていたところでしたので、専門的な先生の評価で後押しされた気持ちでした。障がい者枠で就職するためには障害者手帳が必要です。申請するためには診断書を提出しなければなりません。成育医療センターの宮尾先生にお願いして、「アスペルガー障害」の診断書を書いていただきました。子どものころから様々なところで診察やテストを受けてきましたが、それまではっきりと診断されたことはなく、実はこの時が初めての診断でした。
障害者手帳を取得した関係で、狛江市の社会福祉協議会とのつながりができました。社会福祉協議会の担当の方も親身になってお世話くださいました。その結果、運良く旅行関係の会社に就職できました。障がい者枠ということで、その会社の総務関係の方々にも親切に接していただき、今のところ、大きな問題もなく、会社で働けています。今、振り返ってみれば、多くの方々に助けと支えがあって、今日にたどり着けたとしみじみ思います。感謝しかありません。
(#4へ続く)